事例1 「同一労働同一賃金」実現への課題


 工作機械メーカーのA社では,「働き方改革」は企業の生産性向上や人材確保のチャンスと位置づけ,社長を本部長に,各部長級により構成される働き方改革推進本部を立上げ,積極的に取り組みをすすめてきました。働き方改革への対応から,2018(平成30)年4月のいわゆる「無期転換ルール」や2018(平成30)年9月からの有期雇用派遣の無期雇用派遣への転換の対応,残業の削減を目的とした定時の業務終了をすすめる「ナイナイ運動」(「つきあい残業ない」「成り行き残業ない」というA社の運動)などすすめ,同業者が見学に来るなど,業界内でも話題になっています。
 A社の営業部営業課でもこれらの改革に積極的に取り組んできました。有期派遣の無期派遣への転換は営業部の要望に沿って,人事部が対応してくれましたが,「無期転換ルール」の対応では,営業課の五十嵐課長が人事部のマニュアルに沿って,長年非正規社員として働いている人たちの面接におおわらわでした。「ナイナイ運動」では,営業課木村主任の発案で,朝礼のほかに毎日午後4時に短時間の夕礼と業務掲示板を導入しました。夕礼では一人ひとりの部下が今日の残業の予定と残業する理由を営業課全員の前で報告します。理由の明確でない残業はできなくなりました。また,残業をする課員は業務が多忙の理由と業務内容をポストイットに書いて課の業務掲示板に貼ることを実施しています。業務掲示板を見て,多忙な課員にほかの課員が業務支援を申し出るなど,課内の自主的な相互支援が広がり,コミュニケーションも改善するという効果をあげ,残業は大きく減少し,結果として営業課全体の生産性も向上しました。この取り組みは社内の働き方改革推進本部から評価され社長賞として表彰され,社内全体の取り組みになりました。それが業界で話題となって同業者にも広まり,マスコミからの取材も受け,A社の評判が高まりました。
 これらの取り組みも軌道にのり,課内もやっと落ち着いたと思っていたところに,働き方改革推進本部長名で人事部を通じ,2019(平成31)年4月から導入予定の「同一労働同一賃金」の対応について,準備をすすめるよう指示がされました。A社では厚生労働省のガイドライン案をクリアするため,賃金制度の整備が課題となっていました。営業部では担当責任者として五十嵐課長が任命されました。A社は職能給を基本とした賃金体系ですが,指示文書には「職務給の導入も視野に検討する」旨の内容も書かれていました。
 五十嵐課長が担当責任者に任命された当時,国会では,まだ働き方改革関連の法案は成立しておらず,いったい何をどう準備したらいいのかを五十嵐課長は考えました。結局,五十嵐課長は,主任の意見や提案も参考にしようと,木村,船木両主任の3名で定期的に会議を開くことにしました。とりあえず,短い文書なのでガイドライン案を読み合わせ,日本ですすめられようとしている同一労働同一賃金制度の理解からはじめました。また,職能給,職務給についても,それぞれが書籍やネット検索などで資料を持ちよるよう両主任に指示し,毎月第一,第三水曜日に打合せを行うことを確認しました。何回か会議を重ね,正規・非正規を含めた課員の業務棚卸をすすめることを決め,大まかな業務棚卸表(案)を作成し,それをさらに精緻化するため,正規,非正規にかかわらず全課員との面談を行うことを決め,日程を周知しました。
 五十嵐課長が同一労働同一賃金の対応をすすめているある日,五十嵐課長のところに営業課の課員である安西さんがやって来ました。何やら思いつめた様子です。安西さんはベテランで,営業成績は営業課の中では上位クラス,部下の面倒見も良く,営業課の重要な戦力です。何ごとだろうと気になりましたが,その日は五十嵐課長も見込案件を確実に契約に結びつける重要な業務で忙しく,2日後に相談にのることを約束しました。五十嵐課長は話の内容によってはほかの営業課員に見られないほうがいいと思い,会社から少し離れた喫茶店で安西さんと会うことにしました。
 安西さんは「会社では職務給を導入すると聞きました。自分でも勉強しましたが,『同一労働同一賃金』が導入されると,私の給料は下がるのではないでしょうか? ほかの営業課員も心配しています」と切り出しました。「私には小学4年生と2年生の子どもがおり,これからお金がかかります。5年前にはマンションも購入しローンもたくさん残っています。残業もできなくなっているし,妻もパートタイマーなので,これ以上給料が下がったら困るんです」とたたみかけました。
 五十嵐課長は「安西さん,安西さんのお気持ちよくわかりました。ただ,人事部の話によるといまの賃金制度を変えるのは,非正規といわれる人たちの労働条件の改善により会社の生産性をあげようとすることを重点にしています。業務を整理する中では,安西さんのご指摘のことも絶対ないとはいえませんが,大きく下がるようなことはいまのところ予定していません」「安西さんは営業成績が優秀で,新人のフォローをしていることはよく承知しています。安西さんは営業の重要な一員なんです」となだめ,その場は収めてもらいました。
 上司である鈴木部長から担当責任者を拝命した折,部長から「職務給の導入も視野に検討」という内容については,現状では部長級以上の管理者層とIT開発部門など専門性の高い一部の部門での職務給導入を検討していると聞いてはいましたが,どこから聞いてきたのか「会社は同一労働同一賃金で非正規の給与があがるので,職務給導入で正規社員の給料を下げて原資を生み出そうとしている」というまことしやかなうわさが課内に流れ,話に尾ひれがついて,動揺が広がりました。

 解 説 ―― 解決策のヒント

【 設問1 】
職能給とは
 日本における職能給(職能制)とは,従来の年功序列や終身雇用の制度を色濃く残しながら,職務遂行能力を基準(下表参照)にした賃金や処遇の制度です。別の言葉で表すと,会社が社員の給与を決めるにあたって,人を評価対象とし,評価に応じて給与を決めるやり方といえます。勤続年数が長いほど,給与は高くなり,終身雇用を前提とするため,配置転換されても原則,賃金が変わることはなく,配置転換も行いやすく企業内の人材育成はすすめやすい制度です。

職務遂行能力評価の例
(厚生労働省HP 資料より https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/dl/s1211−13o07.pdf)

 しかし1991(平成3)年頃からのバブル景気崩壊と同時に状況は変化しました。経営の不透明感が強まる中で,多くの企業ではバブルで高騰してしまった人件費の抑制が求められました。こうした中で成果主義をもとにした職務給などの賃金制度や等級制度の導入がはじまりました。後述しますが,職務給は運用が難しく管理コストも増大するため,現在では職能給が再認識され,年功序列など従来の制度を廃止した,新しい職務給や役割等級制度を導入する大企業が増えています。

職務給とは
 職務給(職務制)とは,業務内容によって社員の給与が決まる制度のことをいいます。日本経団連出版の『人事・労務用語辞典』では「職務そのものの難易度,責任の度合いなどを評価し,職務によって賃金を決める方式。同一労働同一賃金の原則に立つもので,アメリカでは一般的。実施にあたっては,職務を客観的に分析し(職務分析),それを熟練,努力,責任,作業環境などにより評価して,その評価にもとづいて賃金を決めるものである」とされています。職能給のように「人」を単位とするのではなく「仕事」を単位とする評価制度をいいます。したがって,勤続年数にかかわらず,任された職責によって給与が増減します。つまり配置転換や職種変更は,給与の増減につながります。
 職務給導入の場合,まず行うのが,職務分析で,「職務」を単位として仕事を分析します。「職務」は「job」とも呼ばれ,1人が担当する仕事の集まりのことです。「営業職」,「機械加工職」など職務ごとに「職務内容」「職務要件」「職務責任」「職務権限」などを洗い出します。「職務内容」とは職務の目的,方法,手順を指します。「職務要件」は当該職務遂行のために必要な知識,経験,能力などです。「職務責任」は当該職務を遂行しなかった場合の損害の程度をいいます。「職務権限」は職務上の権限を指します。職務分析では,職務ごとに職務内容,職務要件,職務責任,職務権限を分析し,「職務記述書」にまとめます。職務記述書に基づき,各職務の賃金決定ができるよう職務の評価を行います。職務評価の方法には,さまざまありますが,ここでは分類法の一例を紹介します。分類法では職務等級表をつくり職務等級の定義づけを行います。例をあげると,「1等級:定型的な業務,業務マニュアルの知識が必要」「2等級:判定業務。簿記3級程度,業界知識必要」などです。この等級表に照らして,「8等級 総務部長,経理部長」「2等級 3年以上の経験を積み,定められた業務の遂行可能な社員」など各職務がどこに該当するかを判定します。職務給は成果主義・同一労働同一賃金が原則であり,雇用体系

職務給のメリット

職務給のデメリット

・客観的な判断に応じて賃金を決定
・必要とされる人材像がわかりやすい
・スペシャリスト育成に向いている
・不必要な職務は圧縮される
・総人件費を抑制できる
・評価しやすい

・職務記述書の作成が煩雑でコストがかかる
・職務と給与の対応にはノウハウが必要
・組織や職務が固定化する
・職務が変わらない限り,給与はあがることはない
・職務記述書の見直しが難しい
・生活給への配慮はない

に関係なく適用されます。職務給は職務と給与が合理的に対応していること,求められる人材像がわかりやすいなどのメリットがある一方,組織や職務が固定化しやすい,職務が変わらない限り給与もあがらない,職務記述書の作成が煩雑で職務と給与の対応にはノウハウが必要なため管理費用がかかるなどのデメリットもあります(上表参照)。その結果として,社員は外部でも通用するような能力を磨くようになり,専門的な能力を持つ社員は,必ずしも会社に依存する必要がなく,人材は流動化します。したがってチームワークでの業務遂行やジョブローテーションによるゼネラリストの育成を得意とする日本企業には馴染みにくい傾向があります。現在では一部の管理職やITなどの専門職に適用されています。

職能給,職務給の違い
 職能給と職務給では賃金形態,賃金配分,処遇が異なります。職能給と職務給は賃金の算出方式が異なります。職能給は労働者が保有する職務遂行能力を基準に序列化し,賃金を決定する人を中心とする属人型の賃金決定方式であり,すなわち同一能力同一賃金です。一方,職務給は職務の難易度や重要度をもとに序列化して会社にとっての職務の価値に対して賃金を決める賃金決定方式であり同一労働同一賃金を採用します。また,職能給は職務遂行能力の向上が賃金に反映するしくみです。この職務遂行能力は勤続年数に応じて向上すると考えられており,上司や人事部の主観的な判断で決定されることが多いしくみです。
 職務給は同一労働同一賃金の原則に従っているため,担当する職務の達成度(成果主義)に応じた賃金が配分されます。情緒的な判断は排除され,数値に基づく客観的な判断に応じて賃金を決定します。
 職能給の判断基準となる職務遂行能力は抽象的な性質が強く,評価基準も曖昧になりがちです。そのため,職務や役職にかかわらず,勤続年数を重ねることで,高い処遇や手当を受けることができます。職務給は仕事の達成度や実績に基づき,昇格や昇給が決定されます。そのため,職務遂行能力が向上したとしても会社が指定した上位等級や役職に就かない限り,処遇が高くなることはありません。
 雇用保険や通勤手当,資格手当などの福利厚生での処遇は職能給や職務給で差が出ることは一般的にありません。職能給は日本型雇用に合致した制度であり,多くのメリットがあります。職能給の職務遂行能力は知識や経験,保有資格,協調性などの社員の潜在能力を指し,勤続年数に応じて向上すると定義している企業が多いようです。そのため,社員にとっては同じ会社に長く勤め続けることで賃金の増加が期待でき,企業にとっては,社員の離職を抑制することができます。長期・安定的な雇用につながるため,社員は幅広い職務の遂行や配置転換(ジョブローテーションなど)にも応じやすく,労働力の確保という点でも企業側にメリットがあります。市場環境の変化に対応した組織改編も迅速に行うことができます。
 ただし,正規労働者と非正規労働者間の不合理な差は残されていると考えられ,働き方改革の課題となった経緯があり,職能給,職務給のしくみを理解したうえで,その対応が求められています。

【 設問2 】
社員一人ひとりにとって大きな関心事についての対応や説明の仕方
・背景や目的を正確に伝える

 五十嵐課長がまず注意するべき点は,面接の目的を正確に伝えることでした。賃金制度にかかわるような全社員に利害を及ぼす案件は,内容が正確に伝わらないと誤解を生み,会社への不信感につながります。話す内容や情報提供の範囲は非常に重要なポイントです。
 この場合は,正規社員,非正規社員の不合理な待遇差を洗い出すという目的や会社の職務給に関する検討の範囲を正確に伝えることがポイントでした。また正規社員と非正規社員とでは,内容を区別して伝えることも大切です。正規社員,非正規社員の不合理な待遇差に関しては非正規社員にダイレクトに話をすれば,あたかも不合理な待遇差が存在すると誤解を生み混乱が生じかねないからです。さらに,職務給については,会社で検討している範囲を正確に伝えるべきでした。現状では営業課の職務給導入は俎上になく,その点が伝わっていれば,課内に動揺が広がることはなかったと考えられます。いま会社ですすめようとしている同一労働同一賃金に向けた取り組みの社会的背景を説明することも大切です。
 場合によっては誤解の生まれる余地のないように,要点を文書にまとめ,配付することも考えられます。しかし,文書の場合,誤りがあったり,まだ決定していない事項を掲載したりした場合,その誤った情報によって問題が大きくなる場合もあります。文書を出すかどうか,出す場合の周知の範囲や内容については十分吟味する必要があります。
 課内に動揺が広がった現時点においては,臨時に課内ミーティングを開いて質疑など直接のやりとりで不安を払拭することが考えられます。その際,正規社員と非正規社員は分けてミーティングを行い,@面接の目的を正確に伝える,A職務給については,会社で検討している範囲を正確に伝える,B同一労働同一賃金に向けた取り組みの社会的背景や働きやすい環境をつくる必要性を説明します。
 この取り組みが,働き方改革という国の政策に沿う取り組みであるだけでなく,有効求人倍率が1.58倍(2018(平成30)年2月厚生労働省発表)と売り手市場で厳しい雇用環境の下,働きやすい環境をつくることは他社と差別化し,人材を確実に確保できる企業にするチャンスであり,ひいては当社の生産性向上にもつながることを説明し,疑問にも答える必要があります。

【賃金制度を変更することになった場合の注意点】
 今後A社で賃金制度を変更することになった場合において,「労働条件の不利益変更」にあたる場合で,就業規則を変更する場合には,以下の点にも留意することが必要となります。

労働契約法10条(要旨)
 就業規則の変更により,労働条件が従業員にとって不利益に変更される場合に,この変更に合理性があり,従業員に周知がされる場合には,変更後の就業規則に定める労働条件が有効なものとみなされる。

労働基準法90条
 就業規則の作成又は変更について,当該事業場に,従業員の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合,従業員の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者の意見を聴かなければならない。

※法律の解釈は個別性があるので,ここに書かれた内容に単純に当てはまらない場合があります。

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