事例1 承認欲求を満たすモチベーションアップ策


 S社は,金融機関の事務(バックオフィス)を代行する専門の会社で,営業部,システム開発部,事務代行部の3部門を柱として成り立っています。特に事務代行部はS社の中枢であり,事務を委託された金融機関の顧客の口座管理,取引管理,経理処理,書類管理などさまざまな分野において幅広い事務サービスを提供しています。
 さて,この4月の人事異動で,事務代行部口座管理第3課の新たなライン課長に山下さん(42歳)が任命されこのたび着任しました。前ライン課長M氏(55歳)はS社が導入している「役職定年制」によってラインから外れて総務部に異動になっています。部下の経歴書を読んだ山下課長ですが,着任早々ちょっと気が重くなりました。それは,総勢15人の部下の中に田中さん(49歳)と佐藤さん(52歳)の2人の年上の社員がいることです。特に田中さんの役職は同じ「課長(部下を持たない)」です。さらに,M氏からは,半年前に営業部より異動してきた田中さんにやる気が見られず,ほかの課員から不満が出ていることを聞かされ,ますます憂鬱になってきました。そうはいっても,新任ライン課長としては田中さんにもしっかり仕事をしてもらわなければなりません。山下課長は,課員面談のトップバッターとして田中さんとの面談の機会を設けたのです。
 「田中さんは半年前の異動で営業部からこられたようですが,営業と比べて事務の仕事はどうですか?」
 「どうって言われても…。私は入社以来営業一筋できたから,いまさら事務の仕事はどうですかって言われてもねぇ。まあ,ぼちぼちやってますよ」
 「はぁ〜,…」
そのあとは当り障りのない話をしただけで,そのまま終わってしまいました。
 その後も田中さんの仕事ぶりには相変わらずやる気が見えないまま,また山下課長もそれ以上田中さんのことにあまり関わることなく数週間すぎたのですが,ある日ふと自分が事務代行部へ異動になった時のことを思い出したのです。山下課長は,新卒で入社した時はやはり営業部に配属され,6年間新規開拓を中心に営業活動を行っていたのです。その後事務代行部へと移動になったのです。当時,営業で新規のお客様を開拓したり,事務改善の企画を提案して受注にこぎつけたりなど営業マンとしての醍醐味を味わっていた山下課長にとって事務代行部への移動は,いくら会社の中枢部門で仕事ができるといっても決して意に沿ったものではありませんでした。そのころは仕事に対するモチベーションも落ち気味でした。それでも,事務代行という仕事に何か面白さを見つけられないかを必死に考え続けたのです。「事務」というと,毎日決まりきったことを繰り返しているという印象を持っていたのですが,ITの進展で単純作業が徐々にコンピュータ処理に置き替えられる様を見て思ったのです。「これからは,多くの新しい金融商品・取引手法の出現や法律・制度の制定・改正などに対応するために,高度な知識を駆使して複雑化していく事務処理を効率的にすすめ,顧客に質の高い事務サービスを迅速に提供することが事務代行に求められるのではないか」ということに気がついたのです。営業の仕事とはまた違った事務代行業務の醍醐味である「業務プロセスの改革」という職務に面白さを見出し,仕事へのモチベーションも徐々に回復してきたのです。
 山下課長は,自分自身の経験を語ることが,田中さんにやる気を起こさせるきっかけになるのではないかと思いはじめたのです。
 「田中さん,実は私も10年以上前に営業から事務代行部へきました。当時は,バリバリの営業マンを自負していた私にとって,事務代行への異動はショックでしばらくは落ち込んでいましたよ」
 「山下課長のことは,課は違っていたけど,知っていましたよ。当時,今年の新人は威勢がいいなあ…なんてみんなで話したこともあったな」
 その後,異動直後はやる気を失っていた自分が,いかにして新しい事務代行の仕事に挑戦して面白さを見出し,モチベーションを回復していったかを話したのです。一通り聞いていた田中さんは,
 「課長,私をいくつだと思っているの? 山下課長はこっち(事務代行)にきたのはまだ30(歳)前だよね。まだまだこれからのときだったし,頑張って新しいことにいろいろ挑戦しても十分見返りは期待できたけど,私はもうあと10年もすれば定年ですよ。いまさら,新しい仕事を必死に覚えていろいろ改善工夫したり新しいやり方を考えたりしたって,会社はどう評価してくれるの? もうこれ以上昇進は望めないし給料だってあがらないでしょう? 自分のときと同じように考えないでほしいね!」と,やや言葉を荒げながら言ったのです。
 ところで,口座管理第3課の業務には,金融機関の顧客から受け入れた書類に不備があった場合など必要に応じて直接電話にて話すことがあります。顧客の中には不備を指摘されて訂正や再送を求められると,逆にクレームをつけたりなどいわゆる“逆切れ”する人も少なくないのです。課員の中では,このことが大きな悩みとなっており,入社3年目のF君などは一時ノイローゼ気味になったこともありました。
 田中さんがきてから3ヵ月ほどたったころでしょうか,いま一つ事務の仕事にやる気が見えない田中さんでしたが,あるとき,田中さんが手に持つ受話器から顧客の怒鳴り声が聞こえてきました。どんなクレームを受けているのかほかの課員も気になって聞いていたのですが,その対応が一味も二味も違っていたのです。田中さんは時折相槌を打ちながら静かに聞き,またときには電話の相手を“持ち上げ”ながらとりあえず一通り話をさせた後,ゆっくりと噛んで含めるように顧客に説明をはじめたのです。そんなことが何回かあるうちに,課員の田中さんを見る眼が少し変わってきたのです。
 山下課長は,このことにまだ気がついていませんでした。

 解 説 ―― 解決策のヒント

【 設問1 】
中高年社員の持つ“特性”を踏まえたモチベーションアップ策を
 サラリーマンにとって人事異動はつきものです。社内のさまざまな部署で多くの業務を経験すること(人事ローテーション)が,サラリーマンとしての出世の条件の一つであることは今も昔も変わらないでしょう。多くのサラリーマンは,
「人事異動で意に沿わない仕事をすることになった」
          ↓
「でも会社にいて出世するためには我慢してやらなければならない」
          ↓
「しかし成果を出さなければ昇進も昇給もない」
          ↓
「どうせやらなければならないのなら,何か面白いところがないか探してみよう!」
          ↓
「頑張ってやってみたら意外に興味が持てて,やりがいも感じる部分もある」
などと,それぞれ心の中で折り合いをつけながらすごしているといえるでしょう。そうであれば,異動後の新しい部署でも常に前向きに仕事に取り組み続けることが必要となります。たとえ未経験であろうと不得手な分野の業務であろうと,自分なりのやり方で仕事を覚え仕事の面白さを見つけなければなりません。
 その意味では,山下課長の考え方は間違っていません。自分自身が,それまで大いにやりがいを感じていた営業部での仕事から内勤となってモチベーションが落ちそうになったとき,事務代行という新しい仕事に何か面白いところはないかと必死に探した結果,新しい金融商品のしくみやそれに関わる法律や税制などの改正に合致した事務処理フローを構築して,顧客に質の高いサービスを提供することがモチベーションとなって,その後の山下課長の事務代行部での活躍につながったのですから。山下課長としては,「毎日がダイナミックに動いていた営業と比べると,事務は変化の少ないルーティン的な仕事に思えますが,そんなことありませんよ。私の経験から,面白さを見出していくことができる仕事ですよ」ということを田中さんに伝えたかったんでしょうが,うまくいきませんでした。なぜでしょうか?
 20〜30代の若手部下であれば,モチベーションをあげる手法として有効でしょう。彼らは,社員としてもまだまだ先は長く十分な時間があり,また自分自身でも気がついていない隠れた能力や才能があるかもしれないのです。意に沿わない部署に異動になり,自分に合わないあるいは得意でない仕事を担当することになっても,将来の出世のためと我慢しながらがんばることで山下課長のように新たな面白みを発見し,そのために自分の能力開発に努めようという意欲も湧いてくるでしょう。当然,会社も評価して昇進・昇給といった目に見える部分も期待できるわけです。
 ところが,いわゆる中高年といわれる社員の場合はどうでしょうか? 前述のように,50歳にもなればごく一部の人間を除けば,自分はどの程度まで“出世”できるのか大方わかってきます。しかも55歳で役職定年,さらに60歳で定年となれば,いまさら新しい仕事に挑戦しようという意欲が薄くなることは極めて自然なことといわざるをえません。また一般的には加齢とともに新しいものを吸収する力や意欲も落ちてくるのが実情なのです。こうした中高年社員の“特性”を考えることなくモチベーションアップを図ろうとしても,やり方によってはかえってマイナスとなることもあります。
 田中さんは,入社以来30年近く営業の仕事をしてきました。それなりに実績もあげ,優秀な営業マンとしてたびたび表彰もされました。そんな田中さんでしたが営業部門の若返りを図るという会社の方針で,50歳を目の前にしてこれまでまったく経験のなかった事務の仕事をやることになったのです。サラリーマンである以上会社から与えられた仕事をやるのは当然であることは,もちろん十分わかっています。営業の若返りの必要性も頭ではわかっていました。しかしF君など息子と同年代の“同僚”といきなり机を並べ,わからないことだらけの仕事を教わりながら毎日をすごすことは結構苦痛である一方,自分は営業でこの会社を支えてきたんだという強い自負もあるのです。過去のプライドを捨てて,まったく新しいことに挑戦する気などになれないのは仕方のないことです。その点を理解することなく山下課長のように,田中さんに対して上から目線で経験談を語ってモチベーションをあげようとしても,かえって反発を受けるだけでしょう。
 一般的にいわれるモチベーションをあげる方法であっても,それが必ずしも中高年にとって有効とはいえないということです。状況によっては逆効果になる場合もあるということを知っておくべきでしょう。

【 設問2 】
信頼されること
 一つの見方として,上司の指示通りに部下が動くことで,会社組織は成り立っているといえるでしょう。また部下は,一定の権限を持つ上司に対して,本音では納得できなかったり反発したい部分があったりしても,“宮仕え”の身として基本的には従うのが一般的です。特に新入社員など若手社員は,上司というだけで無条件に従うこともあるでしょう。しかし,中高年の部下はそうはいきません。自身の経験を踏まえながら上司を厳しく見る一方,「もう捨てるものはない」から従う必要はないとばかり,上司に逆らうケースも少なくありません。まして年上の部下の場合はそれが著しい場合もあるでしょう。
 それでは中高年の部下に指示通り動いてもらうにはどうしたらいいでしょうか? それは「信頼されること」です。「信頼」というのは,「仕事ができるから安心して任せられる」からこそ生まれるのは当然ですが,それだけではありません。「自分のことをよくわかっていてくれる」「部下のために一生懸命やってくれている」など心情的な部分も重要です。そしてこの信頼を得るための出発点はコミュニケーションを深めることであり,彼らのこれまでの経験,会社や仕事に関する考え方,実績,将来に向けたビジョン,人となりなど本人のことを十分把握することが重要です。もちろんこのことはほかの社員(部下)に対してもいえることですが,部下が中高年の場合,管理者より“年上”ということが少なくありません。つい敬遠してしまったり,どうせ定年まであと数年だからとお茶を濁すような対応をとったりなど,十分なコミュニケーションがとれているとはいえないケースが多くなるといえるでしょう。“年上部下”の場合は,特にこの点を意識する必要があるでしょう。
 山下課長は,着任後すぐ田中さんと面談しましたが,大した話をすることもなく終わってしまいました。「モチベーションアップ」という行動科学分野に踏み込むのであれば,もっと田中さんを知ることが大切だったのです。自分と同様に営業からきたのだから田中さんの気持ちがわかるとばかり,田中さんを十分に知ろうとしないまま,一方的に自分の考えを押しつけてしまったといえるでしょう。
 さらに,前ライン課長のMさんより,田中さんにやる気が見られず,ほかの課員から不満が出ていることを聞かされていたのであれば,田中さんとの直接面談だけでなく,ほかの課員からの話,前部署の上司や同僚からのヒアリングなど経歴書だけでは読み取れない田中さんの経験,実績,人となりなど田中さんに関する情報収集を行うべきだったのです。少なくともほかの課員から直接田中さんの日頃の仕事ぶりなどを聞くようにしていれば,田中さんの別の一面を知ることができたはずです。
 田中さんから見れば,「ライン課長は自分のことをよくわかってくれている」「自分のために一生懸命やっているではないか」と感じ,少しずつ山下課長への「信頼感」が醸成されていくのではないでしょうか。そして逆に,「年下のライン課長を助けてやろう! できることはやってあげよう!」といった気持ちを起こさせることができれば,それ自体が仕事に対するモチベーションになるかもしれません。

【 設問3 】
モチベーションの向上は,その後の「自己変革」につながる
 さて,山下課長は田中さんのことをあるいは中高年社員の特性を十分知らないまま,自分の経験を語ることでモチベーションアップを図ろうとして田中さんから反発を受けました。もし,田中さん自身との面談をはじめ,部下からの話,営業部の同期の話など情報収集を行って田中さんを十分知っていたらどのような対応がとれたでしょうか。事例では,田中さんの顧客との電話対応を見ていた課員の田中さんを見る眼が変わってきたとありますが,新任課長として,田中さんをはじめもっと部下のことを知ろうとしたならば,こうした話も耳に入り,田中さんの別の一面を知り,今後の活用方法のヒントにもなったはずです。
 田中さんは営業が長かったので顧客対応には慣れており,クレーム対応にしても相手の心理状況を探りながらうまく処理してきました。現在,口座管理第3課では「顧客の電話対応」が大きな悩みとなっており,その改善のために田中さんをうまく活用することができるのではないでしょうか。課内で,田中さんをインストラクターにした「クレーム電話対応研修」を実施したり,田中さんに「電話対応マニュアル」作成をお願いしたり,課員が手に余るようなクレーム電話には田中さんが代わって対応したりなど,課員からは感謝されるでしょうし,田中さん自身も自分が役立っている・貢献していると感じて口座管理第3課での存在価値(居場所)を見出すことができるでしょう。「承認欲求」が満たされることになるのです。
 さらに重要なことは,それがモチベーションとなり,田中さんの次の行動にもつながるかもしれないということです。人は,一つのことに自信が持てるようになったり相手から認められたりすると,次は何か新しいことにも挑戦してみようかという気になるのではないでしょうか。いわゆる「成功体験」が次の成功体験につながるということです。田中さ

んは,事務の仕事ははじめてであり「いまさらこの歳になって…」という気持ちを持っています。しかし,「電話対応」で自分の存在価値を見つけた田中さんは,「いまさらこの歳になって…」と思っていた事務の仕事にも自分の経験が活かせるのではないか,たとえば営業時代に金融機関の担当者から聞いていた「要望」や「改善点」などを取り入れて事務フローをより改善して顧客満足を高めることができるのではないか…などと考え,これまでやる気を持てなかった事務についてももっと業務内容を勉強して知識やスキルを深めていこうと前向きな気持ちになるのではないでしょうか。いわゆる「自己変革」です。
 中高年社員も「自己変革」する必要があることは前述のとおりですが,この事例は,もし電話対応で課員から感謝され役立ったことで田中さんは自分の存在価値を見出していた

ら,それをきっかけとして「もう少し頑張ってみようか」「自分の経験が活かせる仕事がまだあるんじゃないか」と新しい仕事にも前向きにさせることが可能であったことを示唆しています。管理者には,中高年社員がそうした気持ちになることを,つまり「自己変革」を後押しすることが求められるのではないでしょうか(上図参照)。

表紙へ戻る

Page 1.

 

 

目次へ戻る