事例1 組織のビジョンやビジネスの方向性を示しているか


◆ X社の状況

 X社は,製造業,流通業向けにハンディーターミナル,POSシステム,工場の実績収集システムを提供する企業です。秦川英二さん(50歳)は入社してから25年間,これまでずっと製造業のマーケットを対象に営業を行ってきたベテラン営業マンです。大学時代はアメリカンフットボールをやっていたスポーツマンで声が大きく,言葉で説明するよりも,実行して結果を示すというタイプです。新規顧客の開拓が得意で,単独で営業活動を行い,次々と新しい有益な情報を資料にしてお客様を訪問し,人脈形成から案件化を行ってきました。この一方で,一度獲得したお客様には高い職位の方に継続的なアプローチを続け人脈を広げる中で,業績をあげて製造業のマーケットを大きく広げることに貢献しました。その活動を評価されて部長に昇格し,小売業のマーケット拡大を期待されて営業1部に赴任しました。
 営業1部の前任の高橋部長は小売業一筋に24年間やってきた人で,小売業の業界やビジネス,業界の人脈に詳しく,お客様だけでなく部員の話もよく聞き,現場の課題を共有し,ともに解決の方向性を考える姿にお客様,部員からも信頼を得ていました。営業1部は,比較的部員が固定していて,長く同じお客様を担当していたため,高橋部長の考え方,営業1部の中での仕事のすすめ方,お客様の意思決定ルールがわかっています。部門のビジョンや戦略を熟知しており,これまでの慣例に従って業務をすすめていました。そのために,新しいことへのチャレンジはあまりありませんでした。
 このようなビジネスや組織の環境の中に,秦川部長は赴任しました。これまで馴染みが薄い小売業のマーケットのビジネスや業務知識を習得し,小売業のマーケット拡大のための将来の小売業の姿を描き,戦略を立て,新しい取り組みをすることが必要です。新しく一緒に仕事をする営業1部のメンバーとの目標や管理方法を共有し,ビジネスを遂行することが求められています。
 顔合わせのときに,秦川部長は部員一人ひとりから,担当しているお客様の状況,いまアプローチをしているセールス内容について説明をしてもらおうとしました。
 その会合の場面です。
 営業1部のメンバーを前に,秦川部長は大きな声で,「おはようございます! いまから,新・営業1部のキックオフをはじめます。まず,自己紹介から。私の左側から時計まわりに,名前,担当顧客,状況を説明してください」そう言われて,部員は黙って顔を見合わせました。スーパーマーケットを担当するグループの広田課長が「課長の私から,グループの担当顧客と役割を紹介し,その後メンバーから自己紹介をしてもらいましょう」と提案し,スーパーマーケットグループは広田課長から,アパレルグループは横田課長から,外食グループは松本課長からメンバーへと自己紹介がなされました。
 ひととおり自己紹介が終わると,秦川部長は,「2週間後に事業部の戦略会議があり,その前に来週の水曜日に営業1部のビジョン,ミッション,5年後の姿,小売業界の課題,今年度の目標数値,そのための戦略や施策,仕組みをつくって提出しないといけないことになっています。記入用シートが配布されているのであとでメールします。広田課長,横田課長,松本課長は自分のグループの分をまとめて記入してください。広田課長はシートを集めて,営業1部の戦略会議資料にまとめてください。じゃ,営業1部のキックオフは終了。よろしく」と言いました。

 翌週の水曜日になり,秦川部長は広田課長を呼び,営業1部のシートはできたかとたずねました。広田課長が差し出した営業1部のシートを眺めながら,開口一番,
秦川部長:営業1部として目標数値に対して,計画ができていないね。これを積み増すよ
     うに横田,松本に言ってくれよ。
広田課長:スーパーマーケットは,去年大きな案件をとって,いま,たくさんのシステム
     エンジニアをPOSシステム導入プロジェクトに投入していて,上期に大きい
     案件をとれても,対応できる社員がいません。なので下期にビジネスができる
     案件を洗い出します。アパレルはいまのPOSシステムでは多段階のルックア
     ップに問題があって……。
秦川部長:多段階のルックアップ……。なんだそれ,よくわからないから。まず,数字を
     つくってよ。
広田課長:部長,営業1部のビジョン,ミッション,5年後の姿,小売業界の課題を書く
     ところがあります。これはどうしますか?
秦川部長:小売はわからないからなぁ。適当に書いておいてくれる? ようは数字が達成
     できればいいんだろうし……。
 広田課長は,ため息をついて,自分のデスクに戻りました。
広田課長:事業部や営業1部のビジョンや方針の資料はどこにあるんだろうか? 高橋部
     長のときは,部門のビジョンや方針を伝えた上で,各グループの方針を尊重し
     てくれ,困ったときには相談できたのに……。秦川部長は,小売のこともわか
     らず,ただ丸投げだよ。

 解 説 ―― 解決策のヒント


 仕事では,いろいろな局面で,その都度意思決定をして行動をしていくことが求められています。管理者,リーダーがとるべき行動は,どのように考え,どのように行動すればよいかという方針である行動指針をもとに,具体的にどのように振る舞えばよいのかを考えていく必要があります。ここでは,設問の内容に関わる,管理者,リーダーの行動指針の中から,「組織のビジョンやビジネスの方向性を描き,確実に遂行する」ための行動指針を見ていきましょう。
 組織のビジョンやビジネスの方向性を描き,確実に遂行するためには,管理者,リーダーは,1)組織のビジョンおよびビジネスの方向性を示し,2)計画をすばやく,確実に実行し,3)的確な業務遂行,必要なときには従来の仕事のやり方の変革を実現することが求められます。

● 組織のビジョンやビジネスの方向性を描き,確実に遂行
1)組織のビジョンおよびビジネスの方向性を示すためには,行動指針として,
 ・組織のビジョンを策定し,組織の人々へ落とし込みを行う
 ・ビジョンを実現するための戦略を立案する
 ・組織の短期目標,中長期目標について組織の人々に明確に伝達する
ことが考えられます。具体的な組織のビジョンは何か,組織の人々に理解してもらうためにどのように落とし込んでいけばいいか,具体的な戦略は何かなどは,管理者,リーダーがおかれているビジネス環境や会社によって変わってきます。そのために,行動指針をもとに,その場,その場で適切な,具体的な行動を考えていくことが求められます。これは,以降に説明する行動指針でも同様です。
2)計画をすばやく,確実に実行するためには,行動指針として,
 ・ビジネスの課題に対して,すばやく意思決定する
 ・継続的なPDCAと,すばやい軌道修正を行う
 ・現場との距離を縮め,ビジネスの課題を共有する
ことが考えられます。
3)的確な業務遂行,必要なときには従来の仕事のやり方の変革を実現するためには,行動指針として,
 ・組織の中の業務ルール,ITを含む仕事の仕組みを整える
 ・自社の組織や組織間の壁を取り除き,ビジネスに革新を与える機会をつくる
 ・周囲を巻き込み,自ら変革に導く
ことが考えられます。
 これらのことを表3にまとめておきます。

表3 管理者・リーダーの行動指針(1)

行動テーマ

行動指針

 1.
 組方織向の性ビをジ描ョきン
,や確ビ実ジにネ遂ス行のす る

@ 組織のビジョン
 およびビジネスの
 方向性を示す

・組織のビジョンを策定し,組織の人々へ落とし込みを行う
・ビジョンを実現するための戦略を立案する
・組織の短期目標,中長期目標について,組織の人々に明確に
 伝達する

A 計画をすばやく,
 確実に実行する

・ビジネスの課題に対して,すばやく意思決定する
・継続的なPDCAと,すばやい軌道修正を行う
・現場との距離を縮め,ビジネスの課題を共有する

B 的確な業務遂行
 と従来の仕事のや
 り方の変革

・組織の中の業務ルール,ITを含む仕事の仕組みを整える
・自社の組織や組織間の壁を取り除き,ビジネスに革新を与える
 機会をつくる
・周囲を巻き込み,自ら変革に導く

  これらの行動指針は,仕事の場ではどのような状況で求められ,さらに,具体的にどのような行動として振る舞われるのかを,事例を通して深めていきたいと思います。

【 設問1 】
 戦略会議の準備として,営業1部のビジョン,ミッション,5年後の姿,小売業界の課題,今年度の目標数値,そのための戦略や施策,仕組みなどについて企画することが求められています。
 しかし,秦川部長は,オペレーションの営業としての数値の積み上げ(どれくらいの受注や利益をあげるかの計画)に主眼があり,組織のビジョンおよびビジネスの方向性,戦略の立案,部員とのビジョンやビジネスの方向性の意識合わせができていませんでした。
 秦川部長がまず行うべきことは,営業1部のビジョン,ミッションを策定し,営業1部の5年後の姿を描き,本年度,5年後のビジネス規模も計画することです。次に,これらを,部員に対して理解してもらい,部員が業務遂行の中で,どのように関わり,貢献していくかを計画してもらうことが必要でした。
 一方,事例の中で広田課長は「事業部や営業1部のビジョンや方針の資料はどこにあるんだろうか? 高橋部長は,部門のビジョンや方針を伝えた上で,各グループの方針を尊重してくれ,困ったときには相談できたのに……」とぼやいていました。このことから,前任の高橋部長は,部門のビジョンや方針を伝えて,各グループにグループ方針を立案してもらっていたことが伺えます。これは,「組織のビジョンを策定し,組織の人々へ落とし込みを行う」ことの具体的な振る舞いの1つと考えられます。
 次に,秦川部長は,ビジョンを実現するための戦略を立案すべきでした。たとえば,営業1部は「POSシステムを通して小売業の利益向上に貢献する」というビジョンを掲げた場合,それを実現するための戦略として,小売業のニーズにあった新しいPOSシステムの開発と提供,利益向上のためのPOS情報を活用したコンサルティングと分析ツールの提供,低価格POSシステムの販売などが考えられます。

【 設問2 】
 営業1部では,長く部員が固定していたこともあり,部員は仕事での経験を通して担当する業界やお客様のビジネスや業務を熟知していました。また,前任の高橋部長とのコミュニケーションもよく,業務ルールも整っていたこともあって,これまでやってきている業務遂行は的確な方法で行われていたと考えられます。このような状況の中で,これまで以上に小売業のマーケットを拡大するためには,従来のよい仕事の仕方のいくつかは継続しながらも,新しいことにチャレンジすることが求められます。
 秦川部長は,新規顧客の開拓が得意で,人脈形成から案件化を行い,継続的なアプローチにより人脈を広げて製造業のマーケットを拡大しました。しかし,単独行動で,説明するよりも実行して結果で示すタイプです。また,小売業での知見や経験はあまりありません。
 新しいことへのチャレンジは,必ずしも成功するとは限らず,失敗の中から学び,経験と知見を蓄積しながら,繰り返しチャレンジすることが求められます。
 まず,秦川部長は,新しいことにチャレンジした場合,もし失敗しても容認されることを,営業1部のメンバーに理解してもらう必要があります。また,不足している小売業のマーケットの知見を部員から得て,製造業のマーケット拡大で培ってきたことを小売業のマーケットでも活用することを考えなければなりません。このように,周囲を巻き込み,部員をリードして,営業1部の組織の風土を変革することが必要です。
 また,営業1部は3つのグループがあり,部員は固定しています。スーパーマーケット,アパレル,外食では業界特性が異なるところがあるとはいえ,共通する部分も多く,新しいことへのチャレンジでは,グループ単位ではなく,グループの垣根を取り払った営業1部全体として検討をすることで,新しい知識やスキルを創出する協働の場をつくることができます。

【 設問3 】
 仕事の計画をすばやく,確実に実行して成果を出すためには,正確でタイムリーな情報を得ること,すばやい意思決定,すばやい軌道修正が求められます。
 そのためには,まず,部員との距離を縮めて,現場のビジネス課題をすばやく共有することが必要です。たとえば,1週間ごとに行う部会で進捗や課題の報告を受けるだけでなく,常日頃,部員に声をかけ,「あのお客さんのあの提案はどうなっている?」など,自ら状況の変化をキャッチする行動も有効です。また,部員と同行してお客様を訪問することで,現場の課題を実際に聞くことも,管理者と現場の距離を縮めます。
 すばやい意思決定は,タイムリーで正確な情報とともに,担当するビジネスの業界に関する知識や知見をもっていることが必須です。もし,それに不安がある場合には,業界に関して自ら調査をし,書物で学び,部員から教えてもらうような行動をとるとともに,社内外の知識や技術,専門家の知見を活用し,補完することも必要です。
 すばやい軌道修正は,継続的に,短い周期でPDCAサイクルをまわすことです。1週間に1回の部会で,失注した案件を報告されても軌道修正はできませんが,決定の途中で不利であるといった情報が入れば,それに対処できる可能性もあります。
 また,POSシステムの運用開始が遅れそう,などの大きな動きがあるときの状況報告だけでなく,進捗は遅れていないけれど,POSシステム導入の検討スピードが遅くなっているなど,変化の予兆となりうる情報の報告や情報共有も重要です。

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